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【第1回】平田弘史先生担当譜 由利耕一(元漫画編集者)

 平田さんに最初にお目にかかったのは『週刊少年マガジン』編集部の漫画班に配属された新入社員時代です。私は、1972年東京教育大学を卒業後講談社に入社して、文芸誌「群像」志望だったのですがなぜか『週刊少年マガジン』に配属され、結局定年までずうっと男漫画の世界で過ごしました。そのスタートの頃です。
 当時『週刊少年マガジン』の新入部員は「『少年マガジン』の名刺を持って行って会ってくれない漫画家はほぼいないから、好きな漫画家三、四人を挙げてひとりで会いに行け」といわれました。いきなり海に放り込まれるわけですね。
 配属当初「いろんな漫画読まなきゃ」と勉強している中に平田さんの「つんではくずし」があり、「すごい漫画があるんだなぁ」と非常に印象深かったので平田さんを訪ねて行くことにしました。ちなみにあとのお二人はながやす巧さんと上村一夫さんで、お二人にも長くお付き合いいただくことになりました。
 当時『週刊少年マガジン』は編集長が内田勝さん(1965年から第三代編集長)から宮原照夫さん(1971年から第4代編集長)に変わった時期で、私は宮原さん時代の最初の新入社員でした。『週刊少年マガジン』が読者年齢が上がりすぎて1970年のピークから急激に部数を落とし、新編集長の宮原さんが少年誌本来の読者を取り戻そうといろいろ手を打っている時期にあたります。「群竜伝」「デビルマン」「野球狂の詩」などが始まっていて部数が回復してきていました。
 対象読者の年齢を下げようとしているその時期に「平田弘史」企画はある意味で新路線に逆行するわけです。編集部では「平田さんを提案をするのはいいけど、内容の検討は必要だから、ネームを作ってもらって会議に出すように」と言われました。至極もっともですが、あのぐらいの先生にネームを作らせるのは大変なことで、それはつまり、諦めろってことだったのかなあと、今では思います。
 新入社員は全くその辺の事情が分からず、井荻にある平田さんの家を訪ねてストレートに「編集部がそういっているんでネーム作って下さい」とお願いしたんです。そしたら平田さんは仕事場に塩昆布と剣菱一升を運んで来させて、酒飲みながら「どんな話がいいか」と打ち合わせが始まりました。手元の手帳では1973年の8月6日のことです。
 何度か打ち合わせに伺いましたが、なかなかこれはという案は出てきません。(つづく)

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